本居 大平 もとおり おおひら
   

試筆          大平
春きぬと けさは霞の たちこめて
くもいにたどる 多度の遠山
うすこほり とけゆく春の 初風に
柳のかげも 三重の川づら 
18.2p×17.9p

宝暦6年2月17日(1756年3月17日)生〜天保4年9月11日(1833年10月23日)歿
 江戸中・後期の国学者。旧姓稲掛氏。幼名常松、少年時代は茂穂、重穂、大平。通称十蔵、十太、十介。12歳の時、隣の竹内元之に四書五経を習い、13歳の時から宣長の下で本格的に勉強を始めた。
 伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の豆腐商稲掛棟隆の長男。13歳のとき、鈴屋門(本居宣長)に入る。以後、宣長の旅に随行するなど近仕した。寛政11(1799)年44歳で宣長の養子となり、宣長の死後、宣長の実子本居春庭の失明後は本居家を継いだ。家督をうけたのちは、本居三四右衛門と称し、藤垣内翁と呼ばれた。
 紀州(和歌山)藩主徳川治宝に仕え、文化5(1808)年『紀伊続風土記』選進の命を蒙り、文化6年(1809)6月妻子を連れて和歌山に移住、『新撰風土記』の編集や、藩主に進講したり、門人の要請によって伊勢、松坂、京都に出向いて指導した。
 門人は本居内遠(養子)・海野幸典・加納諸平・山内繁樹らをはじめ1000人以上におよんだ。しかし学問的には特に卓抜な業績はなかった。曲亭馬琴が「人品良き人」(『羇旅漫録』)と評したように、その温厚篤実な人柄によって本居学派をまとめた。大平は長男、次男、3男を相次いで亡くし、3女藤子の婿の浜田鎌次郎を養子として、本居内遠として家を継がせた。
 家集には、近体の歌を集めた『稲葉集』、古体の歌を集めた『藤垣内集』がある。他の著書に『倭心三百首』『古学要』『神楽歌新釈』『玉鉾百首解』など。古学派の和歌集成として重要な『八十浦之玉』の編纂者でもある。

推奨サイト
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http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/oohira.html
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